東京ではまだ路肩に雪が残っておりますね~
顧問のタナカカツキです。みなさまご機嫌いかがでしょうか
今回もよろしくお願いいたします。
水草水槽は毎日変化します 生きた絵画といわれる所以です。
↑「ところで水草は?」のイケちゃん作品
どんなにすばらしく完成した水草水槽も
ほどなく解体(リセット)されて、永遠的なものに高められることはありません。
世界に散らばる名うての水景作家のどんな素晴らしい作品も
直接目にできる機会はほとんどありません。
↑都内ではすみだ水族館だけですかねえ。これも永久的ではない。
水草を素材とする限り、作品はそのときだけの一回限りの瞬間的なものなんですよね。
創作は作家と作品の直接的な関係でオシマイ。
創作の喜びもその過程の中で燃焼しきってオシマイ。
純粋創作だな~~と、思うことがあります。
だけど、作家に、その一回限り瞬間的であることに関して
悲しみや惜しみが、ほとんどないのはどういうことでしょう?
リセット。もうなくなってしまうというのに… 私たちは快感さえ感じます 。
ベラぁ~~~~~~~~~~ カ、イ、カ、ン…
作家は創作過程において、完成イメージの妄想にはじまり
素材の選択、植物、生体、水との言葉をつかわない対話、それを毎日毎日毎日…
↓「ワタクシ水槽」のワタクシエリさん スカイプ越し。
窒素は足りているか?カリウムは十分か?リンは余剰していないか…?
自然素材に身を委ねたものだけが、その声なき声を聞けるようになります。
多かれ少なかれ、そんな能力のようなものを創作者は長い時間をかけて習得します 。 その眼差しはやがて、とうぜん
水槽から自然そのもの 環境へと向かい…
路上のひなびたコケにも
そのへんに転がってる石にさえも
いままでとは違う眼差しを向けることになります。
自然が表現しているもの。
それをみぬく目、聞ける耳。
そんなものが、作家の中に永久的に残るのです。
それは、なにものにも代え難い財産 。
去年の夏の思い出、奥多摩にて。
作品は残らねど、それ以上に残るものが
たっぷりとあるのです。