ハサミを入れてこそ

顧問のタナカカツキです

 

 

 

どれだけ美しいオーロラも
毎日見てればやっぱり飽きるのでしょうか?

 

たとえば写真がすきで
オーロラの写真を撮りたいという気持ちでオーロラと向き合えば
毎日でもオーロラを楽しめるような気がします。

 

写真を撮る目的を持てば
自分ならどんなふうにオーロラを写し取るだろうかと考えるだろうし
オーロラに対しての見方も変化する。

 

長い時間オーロラと向き合うことになります。

 

IMG_6426.jpg

学生の頃、ベースギターを練習し始めたら
流れてくる音楽のベース音がやたら大きく聞こえるようになったことがありました。

 

普段、低音なんてそんな意識して聞いてなかったのに
ベース弾くようになって、低音がはっきりと耳に入ってくるようになったのです。
低音をしっかり受け取れ、感じる自分が作られていったのだと思います。

 

広い音の幅で、音楽をより楽しめるようになりました。
知らずに、音の感性が広がっちゃったんですね。

 

DSC02898.jpg

水草そのものは、単体で十分見るものを楽しませるけど
やっぱり見てるだけだと飽きてしまいます。
美しくてあたりまえ~~!みたいなことになってきてしまう。

人は贅沢ですね。

 

 

飽きる…というか
気持ちが広がっていかないのかな?
ベースギターのときのような
知らずと感性がひろがってゆくような体験を期待してしまいます。

 

DSC02659.jpg

レイアウトしてると
水草への眼差しは、レイアウトに使えるか使えないかのジャッジをして
水草本来の姿を見る目を失ってしまいがちです。

 

 

 

使えるか使えないかは別にして
水草そのものの姿はそれぞれユニークなのです。

 

DSC01945.jpg

それで私も以前、水草をレイアウトするのではなく
1種だけを上手に育てようなんて、やってみたことがありましたが
短い期間で麻痺しちゃいました。

美しくユニークな存在であるはずの水草
いつもの水草になってしまいました。

 

日常的なものになってしまうと
最初に心を動かされた美しさはどこへいってしまうのでしょうか?

 

無感動になる。
人は自分勝手です
勝手に好きになって飽きちゃって…

 

DSC01947.jpg

気持ちが広がっていかない、そこでとどまってしまう。

水草は成長し姿を変えてそのたびの楽しさはあるものの(本来それで十分)
私からすれば、それだけって感じになってしまいます。

 

 

見てるだけじゃ満足しないんですね。

 

DSC02472.jpg


水草の、植物の美しさを余すところなく味わい尽くしたい!


それは見てるだけより、とことんハサミを入れて
切って曲げて転がしてレイアウトして積極的に付き合ってみる。
こちらの水草を感じるセンサーも育ててゆく。
水草を美しいと感じているのはこちら側だもんね
水草を切り刻んで水草まみれになる。
そうしてると、すごく細かなことに気づけるようになってくる。

 

DSC06816.jpg

生け花なんてのも
わざわざ綺麗に咲いている野花の命を?ぎ取って切り刻み
さらなる命を吹き込んでやろうというわけです。

それは人間本位の考え方すぎる!と攻撃をうけたのは
生け花のなつかしい歴史です。

でも結局、長きにわたって今なお生け花が死んでいないとすれば
それは人間が花にとことんハサミを入れてきたからだと
言えなくないでしょうか?

IMG_8937b.jpg

そんな理屈っぽいことは
ほんとはどうでもいいんだ~

 

 

結局言いたいのは
「サ道」の文庫版がでたから買ってね!ってこと
毎日買っても飽きないからね~!

 

 

さあ!水の奴隷になるよ~~!

 

 

 

 

 

 

保存保存

保存保存

保存保存

保存保存

保存保存

保存保存

保存保存

保存保存

保存保存

保存保存